明智光秀最後の城郭、周山城は周山町の城山一帯に位置する総石垣作りの大規模な山城です。若狭,丹波,近江からの街道が交差する京北は京都への交通の要衝であったことから、各国からの人流を監視できるこの場所を選んだのではないかといわれています。光秀は自らを古代中国周王朝の武王の武勲になぞらえ、当時縄野であった地名を周山に改めたとされています。
現在は本丸跡の石垣、鍛冶屋丸、馬馳場など15の遺構が残っています。また、山麓にある慈眼寺には光秀の墨塗りの坐像が安置されています。
光秀が周山城を築いたのは天正8年(1580 )ですが、その翌年に本能寺で織田信長を自刃に追い込むも、豊臣秀吉との山崎の戦いで敗北し、非業の死を遂げたとされています。
周山城はその後も存続し、豊臣秀吉も周山城を訪れたようですが、文献上ではわずか3、4年という短期間だけ機能していたと解釈され、城として機能した時期がかなり限定されることから当時の築城技術や城のあり方を考える上で貴重な史跡となっています。
道の駅ウッディー京北や付近の商店ではの観光案内所で縄張り図付の案内図を配布しております。
城山は登城口からしばらくは少し急ですが、40分程度で天守まで到達します。また、周山城址は京都一周トレイル京北コースの一部でもあります。
周山城の登り口近くの慈眼寺では、「周山城址」の御城印を頒布しています。
名称 | 周山城址(しゅうざんじょうし) |
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所在地 | 京都市右京区京北周山町城山 |
電話 | お問い合わせ 周山城址を守る会 |
アクセス |
クルマ:国道162号線を京都市内から北へ…約40分 バ ス:JR京都駅から周山(JRバス)…約1時間30分 |